視点・焦点・論点

第1号 平成31(2019)年4月17日

關一がめざした大阪の将来都市像(その1)

※この論文は中佐が大学院修士論文としてまとめたものの要約です。

はじめに
 明治時代に始まる我が国の近代都市化の歴史をふり返ってみる時、明治の末から昭和にかけての東京をはじめとする各都市の膨張発展は、日露戦争(明治37年)や第一次世界大戦(大正3年)の影響もあって目覚ましいものがあった。
關一は、大正3年から昭和10年まで、約20年間にわたり、助役そして市長として大阪の市政を預かった人物であった(*1)。
彼が在職中、大阪市は一連の都市計画事業、第2次市域拡張、土地区画整理事業、不良住宅地区改良事業など多くの都市計画やそれに關連する事業を実施している。
ここでは、この時期、つまり明治の終わりから大正・昭和にかけての我が国において大都市の急激な膨張と新しい都市計画制度が確立されて行く中で、關一という一人物を採り上げ、彼が目指した大阪の将来都市像について、現代的な評価を加えながら考察する。

1.關一が考える大阪都市像
 最初に關一が大阪の都市像をどのように考えていたか、その一端を紹介する。
 大阪市は大正14年4月に第2次市域拡張を行ったが、その年の12月の論文に關一は次のように述べており、そこには關一が考える大阪の都市像が示されている。
 「蓋し都市の誇りとするところは、其面積の広狭や戸口の多少ではではない。市民の福祉を増進すべき施設を整え一国文化の進展と経済の振興とに対し最高の機能を発揮するにある(*2)。」
 これは、關一が都市をその規模ではなく内容機能を重視していたことを示している。
 また、交通機關の発達については、「住宅分散上より、なお数線の郊外電車路線の建設(*3)」を力説している。この路線は大阪市を起点に持つ放射状の路線とし、ここに郊外住宅を配置しようとするものであった。
これは田園郊外(Garden suburb)の発達の必要性を述べたものであった。
 關一は、田園都市論をして、極端な大都市反対論、大都市撲滅論と定義する。そして、ハワードの田園都市の理論はそのままいずれの国にも受け入れられるべきものでなく、これはある程度、空想であると述べている。

2.都市計画の目的と内容
 ここでは、關一が都市計画の目的や内容をどのようにとらえていたかを概説する。
 都市計画という語は、米国のCity Planning、英国のTown Planningの訳語であるが、我が国の旧都市計画法(大正8年4月)によると、次のように規定されている。

第1条)
「交通、衛生、保安、経済等ニ關シ永久ニ公共ノ安寧ヲ維持シ又ハ福利ヲ増進スル為ノ重要施設ノ計画ニシテ市ノ区域内ニ於テ又ハ其ノ区域外ニ亘リ施行スヘキモノ」

 これは、具体的には、道路、橋梁、河川、上下水道、および公園などの有形的施設の計画ととらえることができるが、一方、關一は都市計画とは住み心地よき都市を建設するための骨子となるものとその目的を述べる。
 彼は、日本の従来の都市計画が道路事業などに力を入れ過ぎることを指摘し、美観主義を都市計画の目的とする意見のあることを批判する。そして、都市計画は「健全なる都市共同生活の根底を作ること(*4)」が真の目的であるとした。
 次に關一は、都市計画の内容を基本的に二つに分類して取り扱うことをよく行った。その一つは『誤謬訂正の計画』であり、他は『未開地開発の計画』である。前者は都市の既成部分の改造計画などを指し、後者は新市街地の開発などを指している。またこれは病気に例えると、前者は『治療の計画』であり、後者は『予防の計画』である。
この『治療の計画』および『予防の計画』については次回以下でさらに詳しく分析する。

脚注
*1 大正3年7月~同12年11月大阪市助役、大正12年11月~昭和10年1月大阪市長
*2 『大阪市の諸問題』「大大阪」第1巻第1号大正14年12月
*3 「住宅問題と都市計画」P139
*4 「住宅問題と都市計画」P121