視点・焦点・論点

第3号 令和元(2019)年5月10日

關一がめざした大阪の将来都市像(その3)

※この論文は中佐が大学院修士論文としてまとめたものの要約です。


おわりに
 以下では、これまでの分析、考察から注目すべきものを取り上げて、考察を行ってみる。
 まず第一に、關一は「都市計画とは住み心地よき市を建設するための骨子となるもの」とその目的を述べるところにあろう。日本の従来の都市計画が、道路や河川などに傾注してきたことを指摘する一方、都市計画の重点を市民生活の根底を作るということの中におこうとしたのであった。例えば住宅改良についても都市計画の一つの中心的課題として設定し、不良住宅地区改良などを目ざしたのであった。

 第2番目として關一は、都市計画を『治療』と『予防』に分類することをよく行った。第2項で述べた大阪の第1次都市計画事業や不良住宅地区改良は、まさにこの『治療の都市計画』を断行したものであり、また第4項で述べた大阪市の都市計画区域決定から第2次大阪都市計画、そして土地区画整理への流れは、『予防の都市計画』の実行であった。
 この分類方法は、我々が現在において直面している都市計画上の問題に対しても、その詳細な分類、分析は別として、問題の把握、現況の分析などを行う上で有効性は高いであろう。

 第3番目としては、「社会部報告」といわれる一連の調査報告である。これは、關一が大阪市の助役時代に、当時の池上市長に提言して設置されたといわれる大阪市社会部調査課が発行したものであるが、この調査報告によって、市民の現状をつぶさに把握するという、いわば『都市の診断』を行ったのであった。

 第4番目として、大阪都市協会設立に中心的役割を果たし都市協会発行の雑誌『大大阪』の発刊に尽力し、また市長時代彼の提唱によって昭和2年、第1回全国都市問題会議が開かれたことは、關一が都市問題についてより多くの人々の参加と連携の必要性を認識していたことを追記しておく必要があろう。

 第5番目としては、關一が諸外国の都市の状況に通じていたことは、彼の考え方の源泉がどこにあったかを考察する重要な特徴である。第4項で述べたように、關一はの日本の都市計画の先例を諸外国に求め、それを詳しく分析することによって、例えば同じ大都市である大阪のこれから取るべき方向を探る判断資料にしたと思われる。それはつまり、日本の大都市での実践を眼中においた海外都市計画研究と位置づけられる部分が大きいと考えられる。

 最後に、大阪は日本の中では一地方自治体であり、この意味では帝都である東京とは都市の性格を異にしていた。關一は彼の論文の中で、よく帝都東京との対比をおこなっているが、行政上の権限的にも都市財政的にも、きわめて制限されていた地方自治体、大阪にあって、都市への人口集中や、都市問題の面では、商都である大阪は東京と同様な問題を抱えていたといえる。ここに彼が最も苦労したところがあったと思える。しかし、反対に国家の権力が直接的に及ばない地方自治体であったが故に地方の首長として大きな力を発揮し、地方行政をリードしてきたとも考えられる。
 このことは地方の時代、地方分権の時代、そして地方創生が叫ばれるようになっている今日、地方自治体のリーダーと都市づくりという視点から改めて見直してみる重要なテーマと考える。