視点・焦点・論点

第2号 平成31(2019)年4月26日

關一がめざした大阪の将来都市像(その2)

※この論文は中佐が大学院修士論文としてまとめたものの要約です。

3.治療の都市計画
―第1次大阪都市計画事業―
 英国に起こった産業革命は、機械文明の展開、自然科学の発達、交通機關の革新など、社会経済上の大きな転換を世界的にもたらした。これを機に、農村人口は工場労働者として都市へ流れ、都市人口となってゆくが、このようにして膨張していった近代都市は、中世以来の都市形態では、十分機能しなくなっていく。
 ここに、關一が述べるところの都市の改造計画、つまり誤謬の訂正または『治療の都市計画』の必要性が出てきたのである。關一はこのような誤謬の訂正を要するに至った原因を、19世紀以降の都市への人口集中と思想上の個人主義、自由放任論のひろがりにあると指摘する。一方、我が国では日清、日露の戦争や第1次世界大戦を経て都市への人口集中はますます急激なものとなり、東京、大阪をはじめとする大都市では、この誤謬訂正の計画の実行がますます必要なものとなっていった。關一は彼の都市計画論の中で次のように述べている。
 「予防は治療に優っているから、今日の都市計画は前者に重きを置くことは当然であり、日本でも往々大都市例えば大阪市が実行している都市計画事業に關し、金のかかる仕事は止めてむしろ郊外地の開発計画を先にすべしと主張する人がある。これは議論としては正当なる議論である。しかし、私はあまり極端な議論には賛成できない。現に病気に罹っているにもかかわらす、その治療を怠って予防ばかりすることが、思慮なき業であるのみでなく、今日、日本の大都市は建築技術から見ると幼稚であって、耐震耐火の家屋は大都市の目抜きの場所でもはなはだ少数である。もしその改造を行わなかったならば永久に改造はできない。-中略-この理由から我が国においては、多少の苦痛を忍んでも中央部の改造を断行すべきである(*5)。」 
 關一が、大阪市助役時代、大正10年3月に内閣の許可を受けた第1次大阪都市計画事業も、この都市改造の計画、つまり『治療の都市計画』の断行だったのである(*6)。

4.予防の都市計画
―第2次大阪都市計画と市域拡張―
 大阪では、關一が助役そして市長を務めた大正の末から昭和初期にかけて、一連の『予防の都市計画』の戦略が実行に移されていった。
 具体的には、大正11年4月に大阪市と周辺55ヶ町村を包含する大阪都市計画区域が認可されたこと、続いて大正14年4月に東成、西成両郡44ヶ町村を合併した第2次市域拡張が行われたこと、そしてこの編入された市域を含めて第2次大阪都市計画(総合大阪都市計画)を樹立し、それを事業化に移す一方、新市域に対して組合施行土地区画整理事業を強力に押し進めること等をタイムスケジュールの中で計画的に行っていったことである。

▼大阪における『予防の都市計画』の戦略


 以下、この流れを詳しく考察してみる。
 まず、大阪都市計画区域の決定案が内務省原案に比べて範囲の小さいものになったが、それに先立つ大正10年10月7日に都市計画大阪地方委員会に提出された大阪市長答申の考え方が大きく作用していたからであった。答申によると、
 「今次ノ都市計画区域ハ近キ将来ニ於テ本市ニ合併シ同一ノ公共団体ト為スベキ運命ヲ有スル地域ニ止メ……」となっていた。 
 關一は昭和6年6月4日大阪の中央公会堂で開催された都市問題大講演会で「大阪都市計画十年の回顧」と題した講演の際に都市計画区域決定の考え方を次のように述べている。
 「大阪の都市計画なるものは徒に膨大な地域を包含するというよりは大阪の当市を中心として都市計画即ち当市を中心としてその周囲の必要なる地域を加えた有機的区域を定め、而してこの区域内に於いて完全なる大大阪を仕上げてやろうという企てであったのです。大阪市の都市計画は空論に終わるやうなことをやるのではない。実際の仕事をやっていくのだ。故に大体できる範囲でやって行かうという考えを以て進んだものと思います(*7)。」 
 そして都市計画区域決定の3年後、つまり大正14年4月1日に第2次市域拡張が行われたのであるが、編入された44ヶ町村は、大阪市の都市計画区域案の47ヶ町村にきわめて近かったのである(*8)。  
 そして、第2次市域拡張の後、道路、運河、公園、墓地、下水道の整備のための第2次大阪都市計画が作成され(*9)、事業化に移されていった。

脚注
*5 『都市計画の内容』「都市政策の理論と実際」P109~P110
*6 『大大阪の建設』「大大阪」第4巻第6号 昭和3年6月、p.5
*7 關一著『大阪都市計画十年の回顧』「大大阪」第7巻第7号 昭和6年7月
*8 「大正14年 市域拡張概要」大阪市役所
*9 「大阪の都市計画道路」大阪市 昭和51年3月